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2023.11.22

ワイヤレス通信の理論から「再発見」に挑む(上)|杉浦慎哉

メタサーフェスの反射前、反射後のシミュレーション結果 S. Sugiura et al., IEEE Transactions on Vehicular Technology, 2021 (DOI: 10.1109/TVT.2021.3055237)

#「未然課題」連続インタビュープロジェクト #ワイヤレス通信 #信号処理 #6G #物理レイヤセキュリティ

「未然課題」連続インタビュープロジェクト

インタビュー#15 杉浦 慎哉

東京大学生産技術研究所 准教授|ワイヤレス通信ネットワーク

私たちの日常生活で欠かすことができない携帯電話。そこで使われるワイヤレス通信技術は約10年ごとに標準化が行われ、そのたびに通信速度が10~100倍高速化するという技術革新を遂げてきました。
杉浦慎哉氏はそうした通信技術のおおもととなる理論を使って新しい通信手法を構築する研究にとりくんでいます。最先端の通信技術のなかには、何十年も前の「発見」が掘り起こされたことで実用にいたったものもあるそうです。
杉浦氏にいくつかの研究をご紹介いただきながら、予測できない未来に起こりうるかもしれないワイヤレス通信分野の課題についてうかがいました。

紙と鉛筆とコンピュータを使ったアイデア勝負の研究

私は「ワイヤレス通信ネットワーク」という分野の研究をしています。
もともと、修士課程では京都大学航空宇宙工学専攻に所属し、機械系の学問をベースとした総合工学を学びました。その後、2004年に豊田中央研究所に就職し、車同士が通信する車車間通信や、自然界の物質にはない機能を人工的に作るメタマテリアル、高機能アンテナのデバイスなどさまざまな研究を行うなかで、ワイレスネットワークの研究に携わる機会がありました。
ワイヤレス通信で使われる電波は、目には見えません。しかしながら、物理法則に従っていますので、数式を用いて理論を構築できますし、同時に通信端末は理論にしたがって実際に動作させることができます。理論と実証の両方がかみあっているところに面白さを感じました。
特に私は数学が好きだったので、数式で構築する通信のための信号処理に関する理論研究をしたいと考え、イギリスのサウサンプトン大学で博士号を取得しました。以来、モノの部分は触らず、紙と鉛筆とコンピュータを道具としたアイデア勝負の研究をしています。
信号処理と一言で言っても幅広いですが、私の専門分野では、どのように情報を信号に載せて送受信するかという方式の研究が重要な部分を占めています。この分野で「信号処理」と言った場合、信号の送り方と受け方を含む通信モデル全体のことを指すことが多いです。
信号の送り方というのは、例えば携帯電話の3G(第3世代移動通信システム)で使われたCDMAの場合、送信電力を周波数軸上に拡散して情報を送るという方法が取られています。この方式は周波数当たりの信号電力を下げることができ、受信側で拡散符号がなければ第三者に通信を傍受されにくいという特徴があります。これはもともと軍事技術でした。
さらに、4Gや5GではCDMAに代わってOFDMという方式が使われています。これは情報を送るための搬送波(サブキャリア)を、周波数軸上で並列に直交させて同時に送るという方法です。一見、周波数上で各サブキャリアに重なりあっていて干渉があるように見えますが、受信側ではお互いに混ざることなくそれぞれを分離することができます。
私の研究ではこのような情報の送り方・受け方のアイデアを考え、数学を用いて規定したり、モデル化したりしています。モデル化することで改良や検証ができるようになりますので、それにより「この方法で送ることができる」ということがわかれば、実際に通信機を作って実験をするという段階に入ります。私の研究では実験の手前の「どうやってやるか」というアイデアの部分に取り組んでいます。

杉浦慎哉氏

通信分野における大学と企業の役割分担

研究紹介の前に、通信分野について簡単にまとめたいと思います。まず、国際的な情報通信規格や仕様を策定する「標準化」が10年ごとに行われています。商用の移動通信規格は80年代に導入された第1世代に始まり、私が博士課程に入った2007年は、ちょうど第4世代の4Gの標準化の終盤に入ったところでした。
標準化において次世代の通信方式を決める際には、まず主にこれまで論文に発表された技術の中から、有望なものが多数リストアップされます。最近では、ホワイトペーパー(白書)という形でまとめられることが多いです。現在は6Gの標準化の検討が進められており、インターネットで6Gのホワイトペーパーを検索すると、例えば通信大手各社や研究機関から「夢の6Gを作るための技術」をリストアップしたものを見ることができます。
こうした技術の候補をもとに、標準化活動の前半では新しく採用する技術候補の選定が議論され、後半では実用に向けた準備が始まります。
このため通信の分野では、主に大学の研究者が技術を論文に書いて発表すると、それら論文の技術の中から有望なものが抽出されて「標準化」が行われ、企業によって社会実装されるというように、大学と企業がうまく役割分担をしているようなところがあります。
研究者人口も多く、この分野で最も権威のあるIEEE (Institute of Electrical and Electronics Engineers) という世界最大級の学会では、毎月膨大な数の論文が発表されています。さらに専門分野ごとにソサイエティに細分化されており、そのソサイエティが発行する各論文誌で毎月さまざまな論文が出版されているという状況です。
そしてこれまで、移動通信技術の標準化各世代で革新的な技術が登場し、通信速度は10年ごとにおよそ10~100倍速くなってきました。革新的な技術というのは例えば、3Gに選定された誤りを訂正するためのターボ符号や、4Gで実用化されたアンテナをたくさん使うMIMOなどがあります。
ターボ符号というのは、伝送路で生じる誤りを訂正する誤り訂正符号の1種です。1993年のフランス開催の国際会議で発表されたとき、多くの研究者は「そんな性能が出るわけない」と考えていたそうです。しかしながら、実際にその方法で試してみると、発表通り演算コストが低いまま誤り訂正の限界に近い性能が得られ、この発見は3Gに導入されることになりました。
ただ、標準化においては、1つの技術だけが選定されるわけではありません。変調方式ならばこの技術などというふうに、いくつかの技術の組み合わせで高速化などの性能を実現しています。「エンジニアリングは1つの技術だけでは解決しない」というのは、よく言われる言葉です。
また、過去の技術が掘り起こされることも少なくありません。4G、5Gで使われているOFDMの概念は1960年代に提示されたものです。その後、長らく埋もれていましたが、高速フーリエ変換という技術とセットで使うことや、ハードウェアの急速な発展によって30年たった1990年代になり実用化され、今の通信技術となりました。

暗号なしで、高いセキュリティを実現する通信方式

こうしたなかで、私自身は直近の標準化からはやや距離をとった、さらに将来の研究をしています。標準化というのはある程度見通しのたつ技術から実用化できそうなものを選定して開発するという面もあり、通信システムとしての手順を定めて実用化するための行程になります。
一方、私が取り組んでいる「アイデア」の研究は、実用から遠く将来のワイヤレス通信システムの標準化の俎上に上がるような要素技術の提案に取り組むものです。例えば数学などの基礎研究の分野で新しい定理が発見されると、それが何十年後かにさまざまな分野で活用される可能性があると思いますが、私もそうしたより波及効果の高い研究を目指しています。
一例として、私の研究室で行っている「物理レイヤセキュリティ」は、現状の鍵暗号方式とは全く異なる方式で安全性を担保する通信技術です。
例えば、秘密鍵共有に利用される公開暗号鍵方式というものがあります。悪意のある盗聴者が公開暗号鍵方式を破ろうとしたとしても、今の計算機演算能力では実用的な時間内では解読できないため、使い勝手がよく、普及しています。一方、これらの方式は理論的に100%暗号解読ができないことは保証されていません。数十年後あるいはそれよりもっと早く、演算能力やアルゴリズムの発展とともに秘密鍵共有の役目を果たさなくなるかもしれません。
一方、「物理レイヤセキュリティ」は、下図のように「アリス」が「ボブ」に情報を送る際、それを「イブ」が盗聴しようとしても、アリスとボブの正規の通信路が、イブとアリスまたはイブとボブの間の盗聴用通信路よりも安定していれば、暗号化をしなくても物理的に盗聴を防ぐことができるというしくみです。
さきほど、「過去の技術が掘り起こされる」と述べましたが、実はこの理論もその1つです。1970年代の論文で、絶対に情報を漏らさないことが可能となる条件が理論的に提示されています。ただ現在、この理論は一般的なワイヤレス通信においては使われていません。
その理由の1つは、時々刻々変化するワイヤレス伝搬路を考える際、どのようにしてその前提条件を100%満たすかという部分を示すことが非常に難しいことにあります。しかし上述の通り、現状の公開鍵暗号はコンピュータの演算能力が向上するといずれ解かれうることが予測されています。
そこで私の研究ではこのような暗号を用いることなく安全に通信できる手法を利用して、下図のように、複数の中継ノードに備えられたデータ一時的保持が可能なバッファを使った柔軟かつ自由度の高い物理レイヤセキュリティ方式を提案しました。
ただ、実際にはイブの伝搬路の通信路の状況はわかりませんし、そもそもそのイブがネットワーク内に存在するかも不明です。そのためアリスとボブの間の通信路をどの程度太くしたら安全といえるかわかりません。また、無線の場合、通信路は変動するため、伝搬路が一定程度変動するたびにシステムパラメータをリフレッシュする必要があるなどの課題もあり、まだまだ研究が必要です。

高自由度中継による物理レイヤセキュリティ

(2023年2月16日 東京大学生産技術研究所 杉浦研究室において 取材・構成:田中奈美)

ワイヤレス通信の理論から「再発見」に挑む(下)」に続く

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