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2022.09.01

想像力の先の「あり得るかもしれない未来」を想像する(下)|菅野裕介

#「未然課題」連続インタビュープロジェクト #人工知能 #機械学習 #ディープラーニング #SF #コンテンポラリアート

「未然課題」連続インタビュープロジェクト

インタビュー#02 菅野 裕介

東京大学生産技術研究所 准教授|インタラクティブ視覚知能

視覚を通した人とコンピュータのコミュニケーションはどうあるべきか、機械学習やディープラーニングの学習プロセスに、人間がどのように関与していくか……。
コンピュータビジョンとヒューマンコンピュータインタラクションを研究する菅野裕介先生に、研究のクリエイティビティと閉じられた情報技術における「未然課題」、さらに現在の技術決定論な未来構想とは異なる未来についてうかがいました。前編に引き続き、後編をお届けします。
<前編:https://oec.iis.u-tokyo.ac.jp/topics/208/

情報系の技術で実現しうる未来

改めて機械学習やコンピュータビジョン研究の現状に目を向けると、近年は発展が急速すぎて、去年の手法ですら古く扱われるようなところがあります。最近は、査読前の信頼性が確認されていない論文が速報的に発表され、研究者はプレプリントサーバーにアップロードされたそれらの最新の論文をチェックするということが一般化しています。これについては批判もありますが、それだけ競争が激化しているということで、論文の不正などのスキャンダルも徐々に増えています。
近年の人工知能研究では、GoogleやMetaのような大企業を中心に、大量のGPUと大量のデータを使って様々なタスクに汎用的に使うことのできる大規模なモデルを学習する事例が盛んに行われ、非常に注目されています。これらはファウンデーションモデルという言い方もされていますが、そのようなベースとなるモデルが、資金力のある一部の大企業によって開発され、独占されるという中央集権制的な側面も高まっていると言えます。
このような中で未来を考えたとき、一般的には、現在行われている研究で未来が決まっていくと考える人が多いかもしれません。もちろん科学技術にはそのような側面もあります。特に物理的に実現させなければならない課題の場合、自然の制約から大きく離れた世界というのは考えにくいでしょう。
しかし、こうした物理的制約の少ない情報系の技術で実現しうる未来は、本来、いくらでもあり得るはずだと私は考えています。SF作家の樋口恭介さんの短編に『踊ってばかりの国』という作品があります。これは岐阜県の郡上市を舞台とするオンライン・ゲーム「サイバー郡上八幡」のユーザーたちが、独自の仮想通貨とメタバースをつくって、国家として独立し、踊り続けることがそのコミュニティの目的になっているという話です。
完全に資本主義の外側にあるサイバースペースのように、私たちが想定しうるガバナンスを超えたコミュニティを作ることもできるかもしれません。また、小さなローカルコミュニティが技術的にめちゃくちゃ尖った方向に走り、かつ主流派とは全然違う価値観のコミュニティや世界を作ることで、地域固有の課題を解決するということも、あり得ない未来ではありません。

菅野裕介氏

コンテンポラリアートの想像力を情報工学の研究に持ち込む

あるいは、コンテンポラリアートの想像力を情報工学の研究に持ち込むという議論があってもよいはずです。近年、STEM(科学、技術、工学、数学)に、Artを加えて、STEAM教育と言われたりしますが、「アートを入れる」ということは、世間で思われている以上に、大きな可能性が開かれるものなのではないかと感じます。
例えば、Chim↑Pomというアーティスト集団が、近年繰り返し取り組んでいる「道」というプロジェクト・作品は、美術館のような私的空間の中に「道」を物理的に設置して、第三者の路上パフォーマンスなど公道であれば許される行為をその道の上では可能にする、というものです。本来であれば所有者がルールを決められる私的空間に、全ての関係者が協議しながらルールを決める必要のある公的空間を部分的に発生させる試みと言えます。
ウェブサイトやメタバースは私的空間であることが当然のように思われていますが、そのような場所に「道」のようなものを実装するための技術を研究・開発することは可能でしょうか。
私の場合、九〇年代、ゼロ年代育ちで、当時のサンプリングカルチャーやシミュレーショニズムに影響を受けました。学生時代は美術サークル所属で、DJもしていたので、「想像力の先」を考えるとき、どうしてもメタな方向に引っ張られるところがあります。
情報系においても、Chim↑Pom的な未来像を実装する研究や、ノイズミュージックやトラップなどの前衛的あるいはストリート的な音楽カルチャーを想像力の源泉とした研究があってもよいはずです。アートがもたらす想像力には、現在の社会では許容されない、めちゃくちゃなものも含みうることができます。しかし、現実には、そのような研究をする人は、研究コミュニティにはいないのではないかと思います。
私自身が過激な未来をのぞんでいるというわけではありませんが、情報技術に関する現状を見ると、限定された想像力で未来が決まっていくような感じがして、何かを見過ごしている可能性があるのではないという強い危機感を抱いています。

「AICOMプロジェクト」を共同で進めるデザインラボのメンバーが結成したバンドのライブでDJをする菅野氏

技術者の持つカルチャーの偏り

これはあくまでも私の仮説ですが、想像力が限定される背景には、情報系の技術を作る側にまわれる人が非常に少ないということがあるのではないかと考えています。工学全般に言えることですが、技術で何ができるのかを正確に理解して、使いこなすには、ある種のスキルと勉強が必要となります。また、それらを理解しないと獲得しえない想像力というものがあって、どこまでを所与のものとして捉えるかという話には、作る側とそれ以外に断絶が生まれます。
特に情報系に関して、技術によって作られたものの可塑性、つまりどこまでが作り替えられるものかを、きちんと把握している人というのは、私たちが思う以上にとても少ないかもしれません。
情報技術やコンピュータは、本来、非常に可塑性が高いはずです。私たちが日常的に使用しているパソコンも、今ある形と全く異なったものはいくらでも考えられますし、インターネットやサイバースペースも、当然、ほかの仕組みを想像することは可能です。しかし、それは技術を理解している研究者やエンジニアだからこそ可能なことです。
しかし、そうした情報系の技術者の層には偏りがあります。今私たちが手にしている情報技術の設計者が、多種多様な社会の構成員であるかというと、全くそんなことはありません。ジェンダーや人種的なギャップもありますし、経済的な偏りも当然あります。
何かを作ることを楽しむ、というのも一種の性格のようなもので、技術を作る側のカルチャーが、一般社会に比べると、圧倒的に多様性が足りていないということは、もしかするとある程度、仕方のないことなのかもしれません。しかし長期的に見ると、それは社会的にも非常に問題となるはずで、これは「未然課題」の一つと言えるのではないかと思います。

未来は作り替えられるか

上述したプライバシーの話も、データを獲得して使う側と、獲得される側が圧倒的に非対称であることが問題になります。でももし、データを獲得される側が、獲得する側の視点に立つことができれば、議論も変わる可能性があるのではないでしょうか。
またもし、研究コミュニティの外にも技術が開かれ、一般の人が自分なりのAIや機械学習のモデルを作るという発想を持てれば、たとえプライバシーの問題自体はなくならなくとも、少なくとも、それに対する的確な議論ができるようになるかもしれません。
ただその一方で、みなが自分の欲しいAIを自分で作れるようになる未来というのは、自分の見たくないものをフィルタリングするモデルを、みんなが作れるようになるということでもあります。そうなった場合、社会の分断は進む可能性があり、これもまた、「未然課題」となりうる要素です。
いずれにしても、こうした問題は、私たちが行っている研究だけで解決できるものではありません。プライバシーに関しても、技術的に解決できる話ではなく、最終的に社会的なコンセンサスをどこに置くかという問題となるでしょう。
現在、情報系の法整備の話題が増えてきていますが、その議論をするためにも、やはり、技術をある程度、正確に理解できる人が増えないと、正しい方向に進みません。ですから、繰り返しになりますが、いろいろなバックグラウンドを持った人が、研究に参加する余地があることは、とても意味があると思います。
技術というのは、本来、開かれたものであるはずだという思いをずっと抱いてきました。
全ての人の参入を目指すことは難しいとしても、研究や開発のプロセスに、さまざまな人が参入する回路をつくることができれば、現在の技術決定論的な未来構想とは異なる未来を作っていくこともできるのではないかと考えています。

関連サイト:菅野研究室|https://ivi.iis.u-tokyo.ac.jp/

(2022年7月11日 東京大学生産技術研究所 菅野研究室において 取材・構成:田中奈美)

#「未然課題」連続インタビュープロジェクト #人工知能 #機械学習 #ディープラーニング #SF #コンテンポラリアート